日本の皮膚科学の歴史

土肥慶蔵先生
土肥慶蔵先生

皆様方もご存じのように、日本の医学は明治の文明開化の時代に産声をあげました。東京では東京帝国大学が創建されて医学の発展に拍車をかけました。一方、その中の皮膚科学の発展に尽力したのが土肥慶蔵先生です。このページでは土肥先生について紹介させていただきます。

先生は慶応二年(1854年)、越前武生(現福井県越前市)に石渡家の次男として生まれました(24歳時に叔父土肥淳朴の養嗣となって以後、土肥姓を名のりました)。父は五代宗伯で代々越前府中本田家に仕えた典医の家柄でした。しかし、時代の趨勢は決して慶蔵にとっては順風ではなく、父の健康状態もすぐれず多難な少年時代でした。それでも当時の小学校では成績優秀、今で言う飛び級で初等教育を終えたようです。

明治13年春、先生は15歳で上京し、東京大学予備門から帝国大学医科大学に進級し、同23年に卒業しました。すぐさま外科に入局し、ドイツ人教師スクリバに師事しました。しばらくは外科学の研鑽を積みましたが、“このままここで修行しても、実地の腕はいくらか上達しても学問は大して進みそうもない”と考え、当時の学問の中心であったドイツへ留学しました(明治26年)


東京大学にあるスクリバの胸像

当初、ハイデルベルグ大学で外科学を学んでいましたが、この時、先生に転機が訪れたのです。 帝国大学で皮膚病梅毒学講座の独立が計画され、先生にその白羽の矢が立ったわけです。時の病院長宇野 朗教授に内交渉を受けました。最初、先生は辞退しましたが、スクリバから紹介を受けたチェルニー先生にも相談し、最終的には先生に一大決心をもたらしたわけです。ドイツからオーストリアに転進した先生はカポジ(ヘブラの高弟)に皮膚科学を学ぶことになりました。カポジのもとで皮膚科学を学んだ後、フランスではギュヨンのもとで泌尿器科を研修して、明治31年春に帰朝しました。

 帰朝後、助教授を経て同年6月には教授に昇任して、帝国大学皮膚科黴毒学講座を主宰することになりました。まさに日本の皮膚科学の夜開けです。明治33年には日本皮膚病学会(現 日本皮膚科学会)を創設し、翌年には皮膚病学及泌尿器病雑誌(現 日本皮膚科学会雑誌)を刊行しました。その後、この学会と雑誌が本邦の皮膚科学発展の両輪となりました。

皮膚病学及泌尿器病学雑誌創刊号(明治34年)

先生は後進の指導のために、ムラージュ、アトラス(図譜)、教科書の出版にも努力しました。ムラージュは皮膚病変の蝋性標本で19世紀の欧州では盛んに作成されていました。患者の病変に石膏を塗って型をとり、そこに蝋を流しこんで標本を作り彩色したものです。皮膚科学の研究と教育に貢献しました。先生は先の留学時にその技法を学び、帰朝後、同郷の画家であった伊藤 有に数多くのムラージュを作成させました。

    ムラージュ(皮膚病変の蝋製模型) 北海道大学博物館

現在、東京大学をはじめ旧帝国大学に多数が保存されています。筆者も北海道大学総合博物館で現物を見せて頂きましたが、今のようなカラー写真のない時代には非常に有用であったろうと感じました。

アトラス(図譜)も伊藤 有によって皮膚病変がみごとに描写され、肉筆画である『日本皮膚病黴毒圖譜』が明治36年に出版されました。この図譜は10帙(ちつ 巻のこと)からなり、各帙には5種の皮膚疾患が描かれて、その解説も含まれています。1帙が3円で全帙そろえると30円で発売されたそうです。当時、どれぐらい刷られたかは不明ですが、戦火などによって喪失し、現在、全帙保存されているのは、山形県の病院「済生館」と京都の三宅宗純先生のお宅のみと言うことになっています(国会図書館にも1~6 帙しかありません)。ところが、実際にはこの富田林病院にもあります。興味ある方は是非、ご覧ください。

  • 皮膚病黴毒圖譜

  • 第1帙の裏書

  • 尋常性毛瘡

  • 文身者の丘疹性梅毒

この皮膚病黴毒圖譜が絶版となって、これにかわって発刊されたのが『彩色皮膚病圖譜』です(大正7年)。本図譜の序にも“日本皮膚病黴毒圖譜ハ既に絶版ニ帰シテ、世人ガ新圖譜の発刊ヲ要求スルコト頗ル切ナルモノアリ”と書かれています。これはムラージュを三色版にして印刷したもので、現症・診断・治療などと臨床図を組み合わせて列挙されてあります。実際見てみると、ムラージュそのもののように立体感があり、すばらしい図譜です。これも当院の書架にありますのでご覧いただけます。

    彩色皮膚病圖譜(大正7年)

先生は皮膚科学の教科書として『皮膚科学』を明治43年に朝香屋書店から発刊されました。総論として、解剖、生理、原因、治療などが解説されているのは現在の皮膚科の教科書同様ですが、これらに先んじて、『皮膚病史』の項があり、古代からの皮膚科学の歴史が記載されています。先生は中国の古い医学書にも精通されており、インドや中国の皮膚科学の歴史も詳しく記載されています。

   皮膚科学(土肥慶蔵著 皮膚科の教科書)

このように本邦の皮膚科学の発展に多大の功績を残した先生ですが、特に彼は梅毒の歴史に興味があり、また、公衆衛生上の梅毒予防にも奔走しました。古来、梅毒の歴史は古代説(古代から全世界に梅毒はあったとする説)とコロンブスがアメリカ大陸発見の航海からの帰国に伴ってヨーロッパに輸入して、それがインドを経由して日本にも広まったという新大陸説の二つがあったようです。先生は後者を支持し、古今東西の古文書を検証して大正10年『世界黴毒史』を発刊しました。この書は、後に日本皮膚科学会皆見賞を創設した皆見省吾(九州大学名誉教授)によってドイツ語訳され、世界中で読まれたそうです。梅毒予防については、講演会、講習会、ラジオを通じて啓蒙活動を行い、明治40年には日本花柳病予防会を設立しました。本会は、現在も「性の健康医学財団」と名を改めて活動を行っています。

世界黴毒史(土肥慶蔵著 大正10年)

   赤色の線がアメリカ大陸から全世界に広まったとする黴毒感染の経路

最後に、先生はこのように皮膚科学という学問を通して社会に貢献したばかりでなく、熱烈な郷土愛の持ち主でした。郷土の先人である奥村良築や奇傑毒嘯庵永富鳳介を顕揚しました。良築はその功績を認められ、宮内省から正五位を贈位されています。この経緯については『鶚軒游戯』(がくけんゆうぎ)に詳細に記載されています(鶚軒は土肥慶蔵の号)。また、若越医学会を起こして郷土の学問発展に尽くし、武生郷友会を結成して彼の地の若人が東京で研鑽を積むための寄宿舎を作りました。この寄宿舎は武生郷友会学舎として、現在も東京都新宿区中落合にあって数十名の福井県出身の学生を受け入れています。

このような“巨星”慶蔵も病には勝てず、昭和6年11月6日直腸癌の肝転移によってこの世を去ります。その霊は多磨霊園に眠りますが、福井県丸岡町にも分骨されて白道寺にもお墓がありました。ただ、このお墓は永年の風雨にさらされ、完全に崩壊しました。

  • 土肥慶蔵のお墓(多磨霊園)

  • 分骨された土肥慶蔵のお墓
    (福井県百道寺 現在は見られない)

最後に、本稿の御校閲を賜りました郷土史家の齋藤 隆氏(武生立葵会)に深謝いたします。

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